言葉と音楽と、櫻井翔は、いつも彼らと私たちのそばにあった話

 

 

 

2023年4月25日、「櫻井翔 未来への言葉展」に行ってきました。やはり私の嵐名義は激強で、しっかり第一希望が当たりましたとさ。ここ最近で当たってないの相葉くんの舞台くらいちゃうか?これからもよろしく頼みますぜ名義くん。

 

 

 


 

 

 

最初の本人確認の待合室(全員もれなく身分証とFC枠の人は会員証の提示があってさすがすぎるだろと思った)の最後にいたイー!って顔してる翔くん見て、なんか、これだよこれと思ってちょっと泣いた。

 

これが「嵐の櫻井翔」及び「オトノハの櫻井翔」なんだよな。

 

オトノハ読んでる人は分かるっしょ。優等生で天然の皮をかぶってるのにヤンチャラップ師がちょっと垣間見える感じが身内に向けた櫻井翔なんだよなあ。

 

いやでも待合室で泣く人おらんのよ。

 

 

 


 

 

 

最初のウェルカムメッセージでもうバシバシ櫻井翔を感じてしまって、ああ、この人って本当にずっと言葉を大切にして発信してきたんだなとしみじみしてしまった。

 

「想像通りに想像を超えてきた」だとか、「あなたに向けて書いてきた、これからも書いていく」だとか、「Let’s get on」だとか、うーん、なんかどういう言い回しが櫻井翔をいかに表すかをすごく理解している気がして、こちらがこれこれ!と思うであろうものをふんだんに使ってきてる感があった。

 

まあ翔くんが素に近い状態で発した、または身内に向けた言葉に対して、そのまま私たちがこれこれ!となっているんだとしたら、そんな言葉たちを集めたこの言葉展でそれがこれでもかと出てきているのは当たり前といえば当たり前だよな。

 

 

 


 

 

 

翔くんはきっと、今回の言葉展に来ている人たちはやっぱり「みんな」ではなく「あなた」に当てはまる人たちであると捉えているはずで、でもその「あなた」は「ずっと見てきてくれた」あなたではなく、「ここをのぞこうと思ってくれた」あなたのような気がして。

 

たとえそれがオトノハの開設当初からずっと見ていた人だとしても、最新のオトノハが初めての人だとしても、そこに彼の中で区別はない気がした。まあそれはこれまでの翔くん及び嵐の言動を鑑みてそう思えるっていう部分ももちろんあって、20周年のライブの時に新しくファンになった人たちに「夢の世界へようこそ」っていう言葉を投げていたような気がするとか思い出して、「ずっといてくれたから」ではなく、「一歩踏み込んできてくれたから」あなたに届けたい、なんだろうなってちょっと論理的に考えてみたりもした。私がその立場だからかもしれないけどね。

 

 

 

というか、自分もリアルタイムで読んでたはずなのに全然覚えてないオトノハがたくさんあってさ、あの最初のやぐらのところね。いやこれ今までのオトノハをあのレジのレシートのロール(レジがあるバイトをしたことある人なら分かるやつ)みたいなのにダーーーーーっと印刷してあって、最初の部屋に所狭しと吊るされてたわけ。それで、翔くんの特にお気に入り、じゃないけど何個かピックアップされてたのが大きくやぐらに貼られてたのね。まずそのピックアップの仕方が翔くんらしくて、なにかって、最後にちょっとにこっと、クスっと出来るものが多くてさ。それってめちゃくちゃ翔くんじゃない?

 

でさ、2020年のとかさ、どう考えても絶対読んでるじゃん。でも初めて読んだ?ってレベルで記憶になくて(多分ツイしてないから)、改めて沸き直したんだけど。

 

2019年SNS解禁直後の「今まで以上に嵐に触れやすくなったからこそ、いつも見てくれているあなたにだけ届けたいことが出てくる」とか、2020年国立無観客ライブ前の「本番でしか見れないから忘れられない景色なんだ」とか、ああ、懐かしい、これが嵐だったなってめちゃくちゃ思ったんだよな。そうだよ、この先の景色を「あなたとじゃなきゃ」見たくないと言ったり、最初のステージに「ペンライトの海がきれいだからよく見ておいで」と言われて立った人なんだから。

 

 

 


 

 

 

あとね、翔くんと報道に関して。これ私がSnow Manの阿部くん(急に)に対して思ったことと全く一緒でびっくりしたんだけどさ、阿部くんがZERO選挙に出た時かな、好きな人が出てるからってだけでその時の特番見たんだけど、それで結果的にそのニュースの知識を得たりそれに対して考えたりするのってすごいことだよねって思ったのよ。

 

そしたらさ、翔くんも、「僕じゃ伝えられないことがたくさんある、伝えられない人もたくさんいる、でも僕じゃなきゃ伝えられないことがある、届けられない人がいる」っていうことを言っていて。

 

この前半部分はまだしも、後半部分をちゃんと自覚していて、かつそれを自分だけの武器として念頭に掲げているのってアイドルとしての誇りが高いなと思ってさ。ただ報道や伝えることに携わりたいというだけでなく、それを自分櫻井翔が、1人のジャニーズのアイドルとして、できることを、そしてまだジャニーズで周りがやってないことをと、自分がずっと道を切り開き続けてきたんだというプライドなんだろうな。俺らがあくまでタイトなパイオニアですもんね、はい、愚問でした。

 

 

 


 

 

 

SHO ROOMにあったラップを書いていたノート、面白いものがたくさん書いてあったんだけど、特に私的発見はPIKA☆☆NCHI DOUBLEのラップ詩だった。

 

この詩の、「若すぎた このままずっとなんて考え」のところが「若すぎた このままずっと共にいよう」だったかもしれないと思うと、やはり翔くんは言葉を操る覇者だと思ったの。

 

「このままずっと共にいよう」が「若すぎた」って言われるとでもそういうわけにもいかないよなみたいな捉え方になってもおかしくないけど、「このままずっとなんて考え」が「若すぎた」って言われたら、まあこれは私のなんとなくのイメージでしかないんだけど、なんかその考えが若すぎたから、このままずっと共にいるにはどうしたらいいか考えなきゃいけないみたいな解釈につながるのよね。

 

 

 

それと、ずっと一緒だったとかありがとうとか、確実に起こった事実はちゃんと歌うけど未来のことははっきり歌わず濁しがちな嵐、信用できるなと改めて思うなどした。

 

まあそもそもこのままずっと共にいるつもりがなかった人の方が多かったわけだから、そこから4~5年で20歳そこらの青年が急にずっと共にいようの思考になってても違和感だけど、でもここまでの5年はまあ悪くはなかったんじゃないかなと思ってたかもなとも感じるわけ。

 

だって本当に嫌だったらまじでバレーボール終わった時に解散してるっしょ。それでも5年を迎えて、その時点で「このままずっと」とかいうフレーズが出てきちゃうの、年齢も相まって最初のこの5年が1番たくさんの覚悟を決めたタイミングだったんだろうなと思う。

 

 

 

去年のクリスマス動画(あれって多分言葉展のためにいろいろ準備しててこの頃のノートを見ながら思いだしてた時期だったのかもね)とか夜会とか振り返ると、この今やっていることを一生の仕事にしていくのか、それならどんなスタンスで「櫻井翔」があるべきなのか、とかいろいろ葛藤していたであろう時期に「このままずっと」なんて考えが出てきて、でもそんなことを4人と自分たちのファンに言ってもいいのか、受け入れてもらえるのか、少し探りを入れてるような翔くんらしさも感じたな。

 

そして多分5人とも同じような期待と少しの不安を持っていて、だからこうやって先のことはちょっと濁して、とりあえず今ここにあることを着々と積み重ねていくことにしたんだろうな、嵐は。もしかしてあの大野くんの伝説の名言「目の前のことを頑張れないやつが何を頑張れるんだ?」もこの頃ですか?そうな気がしてきた。

 

まあ何を隠そう「ずっとこのまま光よ僕らの未来照らして」とかいう歌詞はあるんですけどね。「僕らの未来」が「嵐」に帰着しないという考え方もできるけどね。形はなんであれ僕ら5人の未来がそれぞれ光り輝いていますように、なんて、え~泣いちゃう、それはそれでちょっと達観してて好きだが多分違う。あ、本人作詞以外のところは全部フィクションですよ!ひなちゃんの妄想です!

 

 

 


 

 

 

え、あの、絵本泣かなかった人いるんか?

 

てか説明書きみたいなところに4人の仲間だか友達だか書いてあって(つまり嵐のメンバーとははっきり言及してなかった)、でもこれ多分嵐のことなんだろうなとか思って見始めたら普通に名前出てきて、しかもそれも、なんだろう、なんかその話が起こったのが偶然嵐のメンバーだったんじゃなくて、この5人が嵐だったから、メンバーだったからゆえの話で。

 

言っちゃえば当たり前かもしれないんだけど、近すぎず遠すぎない、家族でも友達でもない、「嵐」という独特な新しいジャンルの関係性だからこそ、この4人がとったのは干渉しすぎず何も触れない優しさだったんだなと。

 

でも普段通り、いつも通り、自分たちが周りにいることは、俺たちは分かってるよということだけは分かっていて欲しかったんだな。ああ、そうか、いやこれは私の妄想だけど、これがあったからこその、休止会見の「何かあったら俺が話すから」(ニュアンス)(おい)だったんだな、俺らがいるからっていう安心を与えたかったんだな。これもまた優しさだな、愛だな。ああ、嵐って、愛だな。

 

 

 


 

 

 

さあいつも通りブログの着地点が分からなくなってますけれども、言葉と音楽を武器にした櫻井翔は本当に暖かくて強かったということを再確認した展示会でした。そう、発見より再確認の展示会になったよね、と。

 

これまでもずっと、”いちいち記憶に残る種蒔く”かのように常々落とされた、たくさんの、本当にたくさんの「櫻井翔の言葉」があり、それによって嵐は彩られ、形作られてきたと思う。

 

他の誰でもない、今ここにいる「あなた」に伝えたいんだと思ってくれているのではないかと潜在的に刷り込まれていたことが、やっぱりそうだったと、意図的にやられていたと、圧倒されたと同時に安心もしている。あんなに大きい人たちが、みんなの、ではなく、私たちのそばにあるということの絶対的信頼感といったらない。

 

グループが休止しているにも関わらずなぜか心の奥底では根拠のない”この人は、この人たちは大丈夫だ”という心地よさがあるんだよな、しかもこれ、きっと再開してくれるだろうという大丈夫ではないのが不思議だ。そんなことあるだろうか?いや、無いだろう、ここじゃなければ

 

何が大丈夫なのか全くわからないが、でもこの人たちと私たちは大丈夫なんだよな。”未来は過去の積み重ねでしかない”とはこのことで、こうやってずっと安心を積み重ねてきたからこその”大丈夫”なんだと思う、ね、そういうことだよね。

 

 

 

そしてその蒔いてた種たちは咲いてく、いや、もう既に、大いに咲いていると、いまならば言えると思う。